2021/05/14 10:20

 父の友人から釣り竿をもらった、小学二年生の時のことだ。

まったく釣りの経験はなかったが、針に餌をつけて垂らせばいいだけのこと。

すでに頭の中ではカツオのような大物をブンブン釣り上げている自分の姿を想像していた。

さっそく近場に釣りに出かけた。カツオをイメージしているわりに、場所は中島川に架かるよろず橋である。

佐賀銀行の前にあるコンクリートの橋だ。

糸を垂らして浮きがゆれるのを待っていると、通りがかりのおじさんが立ち止まって、私のフィッシングを見学しはじめた。

それがきっかけであと二三人が立ち止まり、ちょっとしたギャラリーができた。

しかし、待てども待てども浮きはピクリともしない。

しびれを切らしたギャラリーのおじさんが

「あんた餌はなんね」

と聞いてきた。私が

「チョコレートです」

と答えると、ドッとみんなが笑い

「やれやれ」

と言いながら去っていった。

自分が好きな物は、きっと魚も好きだと思って、

近くの駄菓子屋でチューブに入った粘り気のあるチョコレートを餌に買ったのだ。

自分も食べれるから一石二鳥だと思ったのに…私はみじめな気持ちになって、初釣りを即刻中止した。

これがトラウマになって、釣りは以後二十年間やらなかった。


 よろず橋にはもう一つ苦い思いでがある。

これも小学生低学年の時だった。

橋を渡っていたら吸いかけのタバコが落ちていた。

常々タバコには興味があって、チャンスがあれば吸いたいと思っていた。

それは周りの大人たちが

「うまい!」

と言っていたからだ。

いったいどんな味がするのだろう。

私は極上のチョコレートの味をイメージしていた。

なんの躊躇もなくタバコを拾って思いっきり吸い込んだ。

地獄を見た。

あまりの苦しさに咳き込み、涙をながし、それがおさまるまで十分ぐらいかかったと思う。

いったいこんなものの何が美味しいというのだ、

大人はアホじゃなかろうか、

絶対アホアホだ、

と苦しみもがきながら大人を呪ったことを覚えている。

これがトラウマになり今にいたるまでタバコを吸ったことはない。

 

 春雨が中島川の水面をやさしくたたく頃に読みたい本がある。

宮田安氏の『中島川遠眼鏡』だ。

中島川に架かるすべての石橋の歴史や小ばなしが書かれている。

私が初釣りをしたよろず橋にはこんなエピソードがあった。

今のコンクリート橋になるずっと前、江戸時代の話である。

喜右衛門という男が丸山の遊郭で遊んでいたのだが、どうも外が騒がしい。

覗いてみると外で待たせていた下男が、どこかの酔っぱらいに暴行をうけていた。

怒った喜右衛門は下男に

「やれ」

と命令する。

許しをえた下男は酔っぱらいを斬り殺す。

実はこの酔っぱらい、遊郭の主人与三兵衛。

自分の下男と間違って喜右衛門の下男を殴っていたのだ。

なんでも、主人が帰ったというのに戸を開けるのが遅かったことで腹をたてていたらしい。

戸を開けたのがたまたまそこにいた喜右衛門の下男だったというわけだ。

このあと奉行からの御沙汰があるのだが、喜右衛門の下男は死刑。

喜右衛門は自費でよろず橋を架けることで罪を許されたそうだ。

 私がよろず橋にブルーな思い出しかないのは、

このような動機で架けられた橋だからではなかったかと、ふと想う。

2009年4月3日発行の『THE NAGASAKI No.633』に掲載されたテキストです

 

「中島川遠眼鏡」宮田 安著 長崎文献社