2021/07/09 11:47
ここは江戸時代の甘味処。
「あれだけ昼飯を喰うて、団子まで入るでござるか?」
と私が聞いたら、あなたが
「ベツ腹でござるゆえ、心配無用」
と答えたとする。
すると、まわりの人々は
「お侍さん、どんな理由があるか知らないが、最期は立派にな…」
と同情するに違いない。
江戸時代の人が「ベツ腹」を何と勘違いしたのかというと、それは「切腹」だ。
切腹はその動機によっていくつか呼び方がある。
自分が仕えた主君が亡くなり、その後を追って殉死することを「追腹(おいばら)」または「義腹」。
また、「同輩が殉死したのだから、自分も逝かねば」という理由でおこなう切腹を「論腹」。
殉死すると、残された家族にはそれなりの施しがあるらしく、それを期待しておこなう切腹を「商腹(あきないばら)」という。
現実には「ベツ腹」などという切腹はないが、
「誰にも言えない、特ベツな理由でおこなう切腹」
とこじつければ、それらしくもきこえる。
長崎で「切腹」といえば、なんといっても文化五年(一八〇八)に起こった『フェートン号事件』を思い出す。
この時代の日本はまだ鎖国しており、貿易は長崎で、しかも中国とオランダだけに限られていた。
旧暦の八月、オランダ船が入港してきたので長崎の役人と出島のオランダ商人は、小舟で
「旗合わせ(貿易許可書の確認)」に出かけた。
すると武装した兵隊が小舟に飛び降りてきて、オランダ商人を拉致してしまった。
オランダの国旗を揚げていたので騙されたが、実はこの船、当時オランダと敵対していたイギリスのフェートン号だったのだ。
人質をとったイギリスは水、薪、食料などを要求し、渡さなければ町を焼き払うと脅迫してきた。
長崎奉行の松平図書頭(まつだいらずしょのかみ)は激怒。
港を封鎖し、フェートン号を攻撃しようとしたが、オランダ商館長のドーフに止められる。
ドーフ曰く、フェートン号の新型大砲で反撃されたら、長崎の町など簡単に火の海にされてしまうというのだ。
実際、港を封鎖しようにも長崎港を千人規模で警備しているはずの鍋島藩の兵隊が、四・五十名しかいないことも判明。
結局、要求通りに食料を渡し、人質は無事解放されたものの、フェートン号は無傷で悠々と長崎港を出て行く。
奉行は胸も張り裂けるばかりに悔しがった。
そして翌日、誰にも告げず一人、責任をとって切腹する。
遺書には
「自分の不手際で、日本が恥をかいてしまった。
長崎警備をする鍋島藩、黒田藩は大藩ゆえ長崎奉行を軽視している。
だから次はもっと地位が高い人物を長崎奉行にしたほうがいい」
などとと書かれていたそうだ。
松平図書頭の墓は寺町は大音寺にある。
大きく、風格のある五輪塔だ。
このフェートン号事件を白石一郎が小説化した。
タイトルは『切腹』。
冥怒雨(めいどう)で外にでれない午後、読んでみてはどうだろう。
因みに、無念のあまりおこなう切腹は「無念腹」というそうだ。
2009年6月26日発行の『THE NAGASAKI No.639』に掲載されたテキストです
「切腹」白石一郎著 文春文庫