2021/09/09 17:28
将軍さまに会ったことがある。
徳川家十八代当主の徳川恒孝(とくがわ つねなり)公だ。
もしも坂本龍馬が薩長同盟に失敗し、幕府が継続していたら、今の将軍だった方である。
もう7年ほど前になるが、徳川記念財団主催の『徳川展』が江戸東京博物館で開催された。
そのイベントの一つとして財団理事長の恒孝公がおいでになり講演会をされた際、私は友人家族と講聴した。
だから“会った”というよりは“見た”というほうが正しい。
講演中、私は眠くなった。
決して話しが退屈だったわけではない。
会場が薄暗く涼しかったこともあって、強烈な睡魔が襲ってきたのだ。
皆が恒孝公のお話に聴き入り、シーンとした会場に
「ンゴォゴゴゴォー」
というイビキが響きわたった。
隣に座っていた妻が慌てて私を起こしたが、時すでに遅し、周りの人たちが軽蔑のまなざしでこちらを見ていた。
世が世であれば間違えなく死罪である。
いや、その場で「無礼者」と切られていたかもしれない。
となれば高浪家は断絶するとこであった。
いや、自分は次男だから問題ないか、などと想像を巡らせていたところ、
隣に座っている友人の子ヒデ君が私に紙切れを差し出した。
そこには「正」マークがぐちゃぐちゃと書かれていた。
「あのおじちゃん(恒孝公)ね
『それで』を一七回、
『そして』を一二回、
『えー』は二二回も言ったよ」
と大声で言うではないか。
その声はまた会場に響きわたり、周りの人々が驚愕した表情でこちらを見た。
わたしたちは居たたまれなくなり急いで会場を出た。
ヒデ君は一人息子。
友人は御家断絶になるところであった。
シーボルト事件をご存知だろうか。
国外への持ち出し禁止になっている地図などが、オランダへ帰る直前のシーボルトの荷物から見つかったのだ。
シーボルトにこれらの資料を渡した多くの日本人関係者が捕まり、重い処分を受けた。
その筆頭がシーボルトに日本地図を渡した幕府天文方の高橋景保(たかはし かげやす)である。
そもそもなぜ出島の医者として来ていたシーボルトが国禁の資料を持ち出そうとしたのだろうか。
実は彼はオランダ政府から日本の内情調査という任務を与えられたスパイだったのだ。
それではなぜ景保は国禁の資料をシーボルトに渡したのだろうか。
それは景保がどうしても欲しい樺太地図を彼が持っていたからだ。
シーボルトは樺太地図と引き換えに幕府の極秘資料である日本地図を要求、景保はその誘惑に負けてしまったのだ。
景保は捕らえられ、厳しい取り調べに耐えられず獄中で病死してしまう。
しかし詮議はまだ途中であり、重罪ゆえに埋葬は許されなかった。
死体は腐らないように塩漬けで保存されるのだが、その方法がエグイ。
口と尻に竹筒を差し込み、そこから塩を体内に押しこむ。
その死体を大瓶に入れてまた隙間なく塩を詰めこむのだそうだ。
一年後にようやく結審、塩漬けの景保にはあらためて死罪が宣告された。
景保の二人の息子は遠島を申しつけられ、高橋家はここに断絶した。
この嘘のような本当の話は、吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」、
二宮陸雄「高橋景保一件」を読むとリアルに追体験できる。
激しい雨風が雨戸たたく台風の夜、恐る恐るページをめくってみてはどうだろうか。