2021/10/22 14:20

 人の弁当を盗み食いしたことがある。

となりの人の弁当というのはひときわ美味しそうにみえるものだ。

中学一年のころの話。さぁこれから昼飯という時に、Aは先生に呼ばれて教室を出て行った。

机の上には弁当が出しっぱなしだ。

「今んうちに食べよう」

最初に犯行を持ちかけたのはAの後ろに座っていたB子だった。

「怒るやろう」

と私が言うと

「わたしんことば好いとるけん大丈夫って」

B子はすでに弁当の包みをあけはじめている。

結局B子と私とC郎の三人でAの弁当をモグモグ食べはじめた。

やや経って三人の箸が止まった、いや凍り付いたという表現が正しい。

そこにAが戻ってきた。

「わぃたち、なんばしよっとや!」

と怒鳴って弁当を奪い返した。

「どういうつもりや!」

と怒りに震えるに、B子は青い顔をして

「ご、ご飯の中から虫が出てきた…」

と言った。

Aは自分の弁当を見て絶句。

いったいどこで紛れ込んだのか、ご飯の中にスズメ蜂の死骸が埋まっていたのだ。

真っ白いご飯に横たわる蜂の、黒とオレンジの模様は強烈だった。

Aは黙って弁当の蓋をして下を向き

「もう食われん…」

とつぶやきシクシク泣きだしてしまった。

「なんも泣かんでもよかたい、こいば食べんね、ほら、みんなも入れてやって!」

B子は自分の弁当の蓋に自分のおかずをよそってAの机に置いた。

私も卵焼きとウインナーを入れた。

クラス全員がおかずやお握りなどをカンパして、終いには山盛りのデラックス弁当になった。

Aはヒックヒック半泣きしながら食べていた。

それにしてもB子の身勝手ではあるが最後はきっちり事態を収拾する、その度量に感心した。

 

 幕末、油屋町に大浦慶(おおうら けい)という女傑がいた。

いち早く茶葉の海外輸出に目をつけ、莫大な財を成した。

そんな慶には嘘か本当か分からない逸話がたくさんある。

「木箱に隠れて唐船で上海に密航した」

「結婚するも、一晩で夫に三行半(みくだりはん)をつきつけた」

「別邸に地下室をつくり、脱藩した志士たちをかくまった」

「坂本龍馬率いる海援隊に大金を援助した」

「海援隊の睦奥宗光に風呂で背中を流させた」

などなど。

そんな逸話の中で私が気に入っているのが遠山事件の主犯、肥後藩士族遠山一也との恋仲説だ。

遠山がイギリス商人のオルトとタバコ輸出の取引をする際、慶に保証人をたのんだ。

数千両の大取引であったが、遠山と恋仲であった慶はこれを引き受ける。

オルトから遠山に代金数千両が支払われたが、商品の煙草が納められることはなかった。

お金は遠山の借金返済に使われてしまったのだ。

結局、取引の未払金は保証人の慶に降りかかり、これが原因で大浦家は没落した。

「女の浅知恵であった」

と深く後悔した慶、時間はかかったものの歯を食いしばり未払金を全額返済したそうだ。

明治一七年、明治政府は茶貿易の先駆者であった慶の功績を讃え、茶業振興功労褒賞と賞金を贈る。

慶が五十七歳で亡くなる一週間前のことであった。

 

 逸話の多くは明治期の講釈士の伊藤痴遊(いとう ちゆう)の政治講談が元になっているらしい。

痴遊はかつて長崎にいた志士たちから取材したそうだが、真偽のほどは明らかでない。

しかしながら小説のネタとしては非常に面白い。

白石一郎の「天翔る女」はこれらの伝説をうまく散りばめた佳作。

慶が取引していた“そのぎ茶”を飲み、秋時雨(あきしぐれ)の雨音を聴きながら、ぜひ一読を。

 2009年10月16日発行の『THE NAGASAKI No.647』に掲載されたテキストの再録です

 

「天翔ける女」白石一郎著 文春文庫