2021/11/26 14:53

 犯罪者になりかけたことがある。

 私は人生で一度も罪を犯したことはない。

それは日常的にある小さな罪のことではなく、

前科がつくような大罪を犯したことがないという意味だ。

 会社員のころ、出張先で牛丼が食べたくなった。

いつも行くチェーン店を探したが見つからない、

しかたなく地元の名も知らぬ牛丼屋に入った。

食券を買おうと販売機を探すが見あたらない。

馴染みの牛丼屋の場合、最初に販売機で食券を買う「先払い」なのだが、ここは「後払い」だった。

これが思わぬ落とし穴になる。

 ガラス張りで外が見渡せるカウンターに座り牛丼を食べた。

歩いている人々や走る車を眺めながら、頭の中では仕事上の課題について思いを巡らせていた。

食べ終わったとき、外にある横断歩道の信号がちょうど青に変わった。

私は反射的に店を飛び出し、ダッシュで渡りきった。

信号待ちをせずに済んだことに自己満足し、ニンマリしていたのだが何か気になる…。

「そ、そうだ、代金をまだ払っていなかった!」

振り返ったときにはもう信号は赤で、車がビュンビュン走っている

血の気が引いた。

“お金を払わず、ダッシュで店を飛び出しニヤニヤしている”

というシチュエーションは誰が見ても無銭飲食のワンシーンである。

「先払いしたと勘違いしたんです」

と言い訳しても、きっと信じてもらえないだろう。

こんな下らない理由で前科がついてしまったらどうしよう

「会社をクビになるかも」

「きっと彼女にも振られる」

「あぁー社会から抹殺されてしまう…」

わずか数秒間の間で勝手に追いつめられた私は、

「行くしかない!」

と車が行き交う道路に飛び込んでいった。

アクション映画さながらに左右の車をせき止め、

かわしながらボンネット上を転がるような勢いで突進した。

急ブレーキで止まったタクシーの運転手は

“いったい何事か?”

驚きの表情で私を見た。

命がけで渡りきり店内に走り込んだのだが…

なんのことはない、店員は注文をさばくのに手一杯で

私が飛び出した事も戻って来た事もまったく気がついていなかった。

私は何事もなかったように四百円支払った。

 

 店員に追いかけられ捕まっていたら、

と思うとゾッとする。

これもひとつの「冤罪」ではないだろうか。

誰がなんと言おうと<気持ちの上では>罪は犯していないのだから。

犯していない罪で疑われたといえば、幕末の長崎で起こったイカルス号事件をご存知だろうか。

イギリスの軍艦イカルス号の水兵が、丸山で何者かに斬殺された。

目撃者の証言から坂本龍馬率いる海援隊が犯人とされる。

激怒したイギリス外交官パークスは土佐藩(高知県)に乗り込んで激しく抗議した。

これに対応したのが後藤象二郎。

パークスが怒鳴り散らすのを平然と聞き流し、

「交渉と聞いていたがどうやらそうではないらしい。

今の無礼凶暴な態度はどうであろう、目的は交渉ではなく挑戦とみた。

挑戦ならば拙者がここに座っているのは無用、談判の中止を希望する」

と言ってのけたのだ。

驚いたパークスは素直に誤り、事件はこれ以上大きくならずにすんだ。

ずっと後、明治になって真犯人が判明する。

筑前藩(福岡県)の藩士で、事件の直後に自刃していたそうだ。

 イカルス号事件やいろは丸事件、亀山社中から海援隊への変遷など、

龍馬が長崎でどんな行動をしていたのか知りたいなら

『龍馬の長崎』がオススメだ、実にわかりやすく書かれている。

冬至雨(とうじあめ)が降る夜、牛丼でも食べながら読んでみてはどうだろう。

ただし、夢中になって支払いを忘れないように気をつけて。


2009年12月11日発行の『THE NAGASAKI No.651』に掲載されたテキストの再録です



「龍馬の長崎」本田貞勝著 長崎文献社