2022/03/11 11:58

 あだ名が欲しかった。

小学校から高校までの十二年間

私に一度もあだ名がつくことはなかった。

最初から最後まで、呼び名は名字の

「たかなみ」

これは非常に残念なことである。

あだ名には無性に呼びかけたくなる

そんな力がある。

自然とみんなから愛される。

だからあだ名で呼ばれる友達たちが羨ましくてしかたがなかった。

「ぶり」

「ウラッコ」

「いんば」

「とっくり」

「ビートン」

「ほそめちゃん」

「シララ」

「ふっちゃに」

「ヨーヨー」

これらは私が実際に呼んでいたあだ名の数々。

どれも味があっていい響きだ。

四〇を越えた今でも、本人に会えばやっぱりあだ名で呼んでしまう。

 あだ名の命名は誰かがふざけて言った言葉が

周りに共感をよんで徐々に定着するというのが一番よくあるパターンだろう。

しかし私のクラスメイトに

もっと戦略的にあだ名の命名をする者がいた。

「もう十人以上にあだ名ばつけた」

と豪語するA君である。

彼にはコピーライターの才能があったに違いない。

確かにA君が命名したあだ名は、そのどれもがクラスに浸透していた。

まさに「あだ名王」である。

小学校三年生の時

どうしてもあだ名が欲しかった私はA君に命名を依頼した。

さっそく彼が考えてくれたのが

「タカナミフリード」

であった。

当時、大人気だったロボットアニメ

UFOロボ・グレンダイザー』

の主人公の名が「デュークフリード」。

A君はその名と私の名前とを合成したのだ。

「カッコよか!」と私も大満足。

さっそくA君があだ名浸透工作を開始したのだがクラスに反応はなく誰も呼んでくれなかった。

結局A君は「タカナミフリード」の失敗を宣言

また新たなあだ名を提案してきた。

それが「目玉焼き」だ。

A君曰く、私は目が大きくてギョロギョロしているからなのだそうだ。

私は「そんなあだ名は嫌だ」と断ったのだが

A君は勝手に宣伝活動をはじめてしまった。

午後にはクラスの一部が面白がって「目玉焼き」と呼びだした。

このまま浸透してしまったらどうしようと焦ったが、呼ばれたのはその日だけで翌日からはもとの「たかなみ」にもどりホッとした。

 

 「目玉焼き」で思い出した本がある。

長崎出身の児童文学作家 福田清人の『春の目玉』だ。

明治から大正にかけての佐賀・長崎を舞台に成長していく草夫少年の日常を描いた物語である。

草夫の伯父が元武士で、士農工商の身分意識をまだ捨てきれていなかったり

子どもを誘拐しては物乞いとスリの訓練を受けさせ金儲けを企む輩がいたりと

登場人物からにじみ出る時代感が平成を生きる私には新鮮だった。

しかしながら、作品中での呼び名に関しては

「健くん」や「ガンちゃん」など現代とそう変わらない。

あだ名にしても「ビチョ」という

今でもありそうな呼び名だった。

 藤の雨の頃

百年前の長崎に想いを馳せながら読んでみてはどうだろうか。

2010年4月30日発行の『THE NAGASAKI No.661』に掲載されたテキストの再録です


 

「春の目玉」福田清人著 講談社