2022/09/30 09:57

 風邪をひいたので近所の総合病院へ行った。

 初診で予約もしていない場合、朝一番で受け付けしても昼近くまで待たされることを覚悟しなくてはならない。

案の定、予約の患者さんでごった返し私は待合室を守る番人と化した。

退屈で眠くなりウトウトとしかけたときのことだ。

七十くらいの老紳士が入ってきて開口一番

「全国のみなさーん朝です。おはようございます。

オッ!今日もみなさん相変わらず顔ん悪かねー

いやいや失礼、顔色ん悪かの間違えやったーヒャッハッハ」と大笑い。

常連なのだろう、待合室の人たちと次々に挨拶を交わす。

そこに看護師さんがやって来た。

奥に座っている男性に病状を訊ねる。

「山田さん今日はどうしたの?」

「いやー、昨日から咳のとまらんとさー」

と男性が咳き込みながら答えると老紳士はすかさず

「咳(関)のぉ〜ゴホン(五本)松ぅ〜」と演歌調で唄った。

若い世代には解らないシャレである。

近くの内線電話が鳴ると

「デンは(電話)急げ!」と走るマネをして即座に反応する。

「善は急げ」に引っ掛けた巧みな駄洒落である。

「悪いとこ内科(無いか)、あってもまぁー消化内科(しょうが無いか)」というのもすこぶる良かった。

あまりに面白いのでメモを取っていたら

「あん人、あれで偉か絵描きさんやっけんねー」

と隣に座っていたおばさんが老紳士の素性を教えてくれた。

このユーモアに富んだ画家は果たしてどんな絵を書くのであろうか。

 

 ユーモアのある長崎の画家といえば川原慶賀である。

そもそも画家としてのポジションからして面白い。

彼は芸術家ではない。

慶賀は例えるならば町の写真屋さんである。

写真屋さんは学校に依頼されて修学旅行に同行し、卒業アルバム用に撮影したりする。

当然ながらこの写真に芸術性など求められていない。

はしゃぎ回る生徒をバスの中や名所や旅館などでバシバシ撮ればいいのである。

慶賀に「写真」のような「絵」を依頼したのは出島の商館医シーボルトだった。

彼は表向き医者として派遣されたが、裏では「日本を調査せよ」とオランダ政府から極秘命令を受けていた。

シーボルトは慶賀を江戸参府に同行させ、風景や植物や動物を大量に描かせた。

この場合、日本画的美しさは不要で、写真のような正確さとスピードだけが求められる。

 慶賀のキャラクターも面白い。

シーボルトがオランダに持ち帰った慶賀の絵に「日本人の一生」というシリーズがある。

出産から墓参りまで、日本人が生まれてから死ぬまでのあれこれを描いたものだ。

墓参りの図の墓石に「淫好助兵衛腎張(いんこうすけべぇじんばり)」と描いていた。

「超スケベ男」を戒名風に表現している。

「どうせオランダ人にはわかんねーから、遊んじゃえ」ということだろう。

もう一つ、ロシア艦隊長官のプチャーチンの肖像画に「Tojoskij(トヨスキー)」と落款を入れている。

慶賀の本名は登与助(とよすけ)。

これをロシア人っぽくしたのだ。

茶目っ気たっぷりである。

 そんなお茶目な慶賀であるが、実は前科が二犯もあった。

最初に捕まったのはシーボルト事件の時。

二度目はオランダ人へ渡す長崎港の絵に湾岸警備の紋所を描き、国防機密漏洩の罪に問われた時である。

慶賀は「江戸・長崎払い」という判決を受けて長崎を追放されるが、後に名字を田口と変えて長崎に戻って来た。

そして、またしぶとく絵描きを続けている。

駄洒落の老紳士風に言えば「歯医者(敗者)復活戦」である。

そんな慶賀の絵描き人生を知るには『シーボルトと町絵師慶賀』がおすすめ。

軽雨(けいう)降る午後、ページをめくってみてはどうだろう。

  2011年3月4日発行の『THE NAGASAKI No.683』に掲載されたテキストの再録です

 

 
『シーボルトと町絵師慶賀』 兼重 護著 長崎新聞新書