2022/11/04 10:58

 「ヤバかぞ!」

 高校の時のことだ。

学食でカレーをパクパク食べてる私の隣にAがやってきて小さな声で耳打ちした。

「昨日ゲーム・センターで偶然聞いたとけど、工業(高校)の連中が海星の高浪ばリンチにするって言いよったぞ、何ばしたとや?」

寝耳に水とはこのことだ、私はなにもしていない。

卓球部に所属し音楽鑑賞が趣味の、毒に薬にもならない平凡な男子である。

「な、なんで!? おい、なんもしとらんぞ」と私は慌てた。

「理由はわからんけど狙らわれとるけん、裏門から帰ったほうがよかよ」

Aが言うので、私はそれから毎日裏門からこそーっと帰宅した。

町を歩いていても学ランの男子とすれ違う度に肝を冷やした。

「私を狙っているのはこの男では?」

「いきなり腕をつかまれて、ビルの谷間に引きずりこまれるかもしれない」

「小指を切断されたらどうしよう」

などと最悪の事ばかり想像してしまう。

ノイローゼでヨレヨレになり、たまらず友人に相談した。

そしたら「お前は騙されとる。Aは嘘つきで有名やっか、知らんやったと?」とゲラゲラ笑われた。

ガビーン。

恐怖に怯えたこの一週間は何だったのだ。

Aに文句を言ったら

「ええー、本気にしとったと? ダメよ、こがんとにひっかかったら」

と、まるで騙された私が悪いかのようにシレーっとしている。

思い起こせば、これまでAから聞いた話はすべて嘘臭い。

南極でオーロラを見た話。

年上のホステスと同棲している話。

中山美穂は遠い親戚という話。

真に受けた私が愚かだった。

 

 江戸期の長崎で起こった犯罪を記録したのが「犯科帳」である。

長崎文献社から出版された『新釈犯科帳 第一巻』を読んでみて驚いた。

現代と比べて刑罰がとっても厳しい。

例えば、幕府には内緒で外国人と貿易する罪を「抜荷(ぬけに)」というのだが、これは非常に重罪だ。

主犯格は死罪で「磔(はりつけ)」や「斬首(ざんしゅ)」にされ、しかも首がさらされる。

又、刑罰はその家族にまで及び息子は死罪、娘と妻は「奴(やっこ)」になる。

奴というのは役人などの家で一生涯仕える、事実上の終身刑である。

主犯格でなくても、抜荷の計画を知っていただけで死罪になった。

判決の基準も「加害者」と「被害者」の関係性が重視されていて、現在とは感覚が違う。

例えば、家族間で事件があったとする。

「親が子」を殺めた場合と「子が親」を殺めた場合では、後者のほうが罪が重い。

武士と平民の関係も同じである。

「儒教的倫理観」と「封建秩序」が判断基準になっているのだ。

近年「嘘つきはドロボウはじまり」という諺が死語になりかけている。

しかし『新釈犯科帳 第一巻』を読む限り、ほとんどの下手人に共通しているのは「嘘つき」であるということだ

あらためて、この諺が普遍的真理だということを再確認した。

しとしと藤の雨が降って事件が起きそうな夜、一読あれ。

 

 にわかに信じがたい話。

東京サラリーマン時代のこと、私は山手線に乗っていた。

前の席でOL風の二十代の女性がウトウトしている。

電車が新宿に着いて乗客が乗り降りして、そろそろドアが閉まろうとするころ。

私の隣に座っていた男がスクッと立ち上がり居眠りしている女性に突進してキスをすると

閉まりかけたドアをくぐり抜け電車から逃げるように人ごみの中に消えていったのだ。

わずか数秒の出来事、新手の痴漢である。

可哀想に、女性は何が起こったのか理解できていない様子だった。

さてこのkiss泥棒、Aに似ていた。

勘違いかもしれないけれど、彼ならやりかねない。

嘘つきだったから。

   2011年4月29日発行の『THE NAGASAKI No.687』に掲載されたテキストの再録です


『新釈犯科帳 第一巻』 安高啓明 著 長崎文献社