2023/02/25 10:22

 日本で最初にできた本格的な映画会社は「日活」です。

明治四五年、すでにあった四つの映画会社が合併するかたちで発足しました。

この合併劇を企画実行したのは四社の内の一社「エム・パテー」の梅谷庄吉(長崎出身)。

庄吉がこのトラストを仕掛けたのには理由がありました。

実は、エム・パテーは破綻寸前だったのです。

会社をなんとか存続させるための合併工作でした。

そんな動機だったからか取締役でいたのもつかの間、翌年には財政難の責任をとって引責辞任。

こんな顛末でしたから映画史では評価が低い梅谷庄吉です。

「破産寸前→合併工作」

という構図だけ見ると確かに不純な人ですが

もう少し踏み込んで見てみると印象が変わってきますよ。

「資金提供→破産寸前→合併工作」

というのがより正しい構図です。

庄吉は大金をある人物に提供していたこともあって資金繰りが苦しくなったのです。

ある人物というのは 中国の父と呼ばれる孫文。

当時、孫文は国の民主化を目指す革命運動のリーダーでした。

庄吉は孫文と香港で出会い

「西洋人に植民地にされようとしている祖国を救うには革命しかない」

と訴える孫文と意気投合。

庄吉もアジア各国を巡る中、西洋人に虐げられる東洋人たちを目にし、怒りを覚えていたのです。

「君は兵を挙げたまえ、我は財を挙げて支援する」

と孫文に約束しました。

資金提供だけではありません。

第二革命が失敗して日本に亡命してきた孫文を自宅に保護し革命活動の場を提供します。

さらに庄吉夫婦を仲人に孫文の結婚式が行われたのも庄吉宅でした。

 大正十四年孫文が肝臓がんで亡くなった際、葬儀には日本から犬養毅ら八十名が参列。
その中で、日本人ではただひとり庄吉だけが孫文の親戚と一緒に棺につきそいました。
二人が肉身同然の間柄であったことが伺えます。
昨今の日中関係はネガティブな文脈でしか語られません。
そんな中、孫文と庄吉の話を聞くとなんとも清々しい気持ちになれるのです。
2013年12月28日発行の『月刊てりとりぃ第46号(1月号)』に掲載されたテキストの再録です