2023/03/31 10:45

 日本史の表舞台に「長崎」がデビューしたのはポルトガル人が長崎港を発見した元亀元年(1570)。

以来、南蛮船・阿蘭陀船・唐船が頻繁に入港し、異文化がダイレクトに入ってきました。

ダイレクトとは

「長崎に滞在する異人から直接指導を受ける」

という意味で、この点が他の地域と長崎との決定的な違いです。

その結果、出現してきた建造物や絵画工芸品は良い意味で洗練されていない、生々しいものでした。

そこに漂う独特の雰囲気、これがいわゆるエキゾチシズムです。

 異国人に学んだ長崎人は、その特殊な技術を前面に出し「流派」を確立。
例えば、荒木元融(172894)という画家は狩野派的要素を基本にして中国の「漢画的画法」を身につけ
さらにオランダ人から「西洋画法」も伝授されました。
このように和洋中を「折衷」した画法をもつ画家たちを、日本美術史では「長崎派」と呼びます。
当時主流だった狩野派に物足りなさを感じていた全国の文人墨客たちが、
長崎派に学ぼうと長崎に遊学するようになりました。
そこで身につけた中国・西洋の最新知識と和文化との「折衷」が日本人の進歩する基本形になったのです。
音楽の場合も、特に明治以降は
「異国的なモノ(特に洋楽)と日本的なモノの折り合いをどうつけるか」
ということが重要なテーマになります。
しかし時が経ち「歌謡曲・ニューミュージック」から「J-POP」へと変わった今
「意識的に外国文化を研究して取り入れる時代は終わった」
と細野晴臣さんは言います。長崎開港から四四四年。
日本人の「折衷創作法」は、西洋文化の進歩のスピードが鈍ったことに連鎖して終焉したのです。
日本人はもはや何に影響されることもなく、自由に創作できるようになりました。
でも何故か、私は音楽に限らず日本文化全般に停滞感を感じています。
「何かと何かが交じり合ったところにいつも面白い音楽ができる」と細野さんが語るように
「折衷」がクリエイティブの源だったのかなぁ、と考える今日この頃です。
2014年6月28日発行の『月刊てりとりぃ第52号(7月号)』に掲載されたテキストの再録です