2023/06/17 10:27

 〝ようするに力だ。力の強い奴が勝って弱い奴が負けるのだ〟

これは日本で最初の上水道敷設(ダム式)に成功した日下義雄の言葉です。

このセリフだけ聞けば

〝物事を力でねじ伏せる傲慢な奴〟

をイメージしますが、日下義雄のいう「力」は性質の違うものでした。

日下は会津藩士で戊辰戦争では榎本武揚らと共に戦い、最後は五稜郭で捕縛されます。

因みに、弟の石田和助は飯盛山で自刃した白虎隊士。

あれ?名字が違いますね。

日下はキャリア・アップのため会津藩士石田五助という名を捨て

長州藩士日下義雄を名乗ったのです(〝久坂玄瑞〟由来の説あり)。

井上馨の書生になって米英へ留学を経験。

帰国後、当時外務大臣だった井上から

「長崎県知事になって近代的な水道敷設をせよ」

というミッションを命ぜられます。

海外貿易港の長崎では伝染病の流行が度々起こりました。

明治十八年のコレラ大流行で千人以上が死亡。

外国人居留地のボス、F・リンガーは外務省に対し

「問題を解決できなければ皆で出て行く」

と宣言(リンガーハット屋号はこの人が由来)。

伝染病流行の第一要因は水でした。

不潔な井戸水を通じて菌が伝染していくのです。

「だったら早く水道つくれば?」

と思いますが、この時点で近代水道が敷設されていたのは横浜だけでした。

まだまだ未知の事業ですし材料は輸入品でハイコスト。

工事額も長崎市年間予算のなんと七倍。

井上もお金の面倒まではみてくません。

日下は公債による五十二年ローンを提案しますが、市民が大反対。

井戸ならタダなのに、水道にはお金がかかりますから。

反対運動はエスカレートし「日下を殺せ」と暴言をはくものも現れ、あちこちで暴力事件が起きました。

しかし日下は一度も「警察力」は行使していません。

ただひたすら、粘り強く交渉したのです。

日下の死後、同郷の林権助は次のように評しました。

 『日下氏の性格の後天的由来は会津の士風と英国紳士風との教養に基づいている。

会津日新館の教育の根本精神は、権利を主張する観念よりも義務に忍従する観念の方が強かったものです。

英国の気風は焦らない何となく鷹揚だ。

勝敗の別れる際どいところまで押しつめて行って、うんと耐えて結局勝つ。

日下義雄は実にその型の人でした』。

日下のいう「力」とは「忍耐力」だったのです。

2016年2月27日発行の『月刊てりとりぃ第72号(2月号)』に掲載されたテキストの再録です