2023/07/14 10:04

 「洋食」といえば、どんな料理をイメージしますか?

さまざまなメニューがありますが、やはり

「ステーキ」

「ハンバーグ」

などの「肉料理」を思い浮かべた方が多かったのではないでしょうか。

日本人にとって、洋食といえば「肉」というイメージにつながるのは、肉食文化が西洋から入ってきたからです。

元々は日本人も獣肉を食べていたのですが、飛鳥時代に天武天皇が仏教振興の為

「牛・馬・犬・猿・鶏の獣肉を食うことなかれ」という勅令を発布。

以降、明治5年の公式解禁まで、延々千二百年に渡って執行され続けます。

解禁直前、日本人が持っていた肉食のイメージは次のようなものでした。

「肉食はけがれているから食べると身も心も衣服も住居もけがれる、人前に出ることもできなくなる」

こういう価値観で長年生活してきた国民に対して、明治政府は「近代国家の仲間入りをするため」に

突如として「肉を食べよ」と方針転換をしたのです。

 

 以上が「日本」に洋食が伝わった過程(超短縮版)です。

ここからは「長崎」というエリアだけにフォーカスして洋食伝来をご紹介します。

「長崎も日本なのだから、変わらないのでは?」

と思われるかもしれませんが、戦国期の長崎は他の地域とずいぶん様子が違っていました。

一六一八年、長崎に滞在していたイエズス会神父が送った手紙に、次のように記していました。

「すべての神父の中で長崎の町に住んでいる神父たちは一番楽しく生活している。

それは町中の建物はヨーロッパ風であるし、牛を殺したりパンを焼いたりすることのできる人たちが

多く町中にいるので、ポルトガルやスペインに住んでいるのと同じような生活ができるからである」

 神父は、長崎がまるで「ポルトガル」であるかのように報告しています。
なぜ、このようなことになったのでしょう。
長崎の大名・大村純忠は、自らキリシタンになり
「キリスト教 布教の自由」を受け入れたことで
ポルトガル人の信用を勝ち取り、巨大な利益を生む南蛮貿易を独占しました。
こうなると、全国から自領で迫害された日本人キリシタンたちが「信仰の自由」を求めて長崎に集まってきます。
ポルトガル人の宣教師と商人、そして日本人キリシタンで構成された長崎は「ポルトガル化」したというわけです。
この特殊な環境の中で「肉」を中心とした「南蛮料理」が根付いていきました。
博多名物「鶏の水炊き」も長崎の南蛮料理がルーツです。
2016年10月29日発行の『月刊てりとりぃ第80号(11月号)』に掲載されたテキストの再録です