2023/10/30 15:00

 「長崎の戦国大名って誰だっけ?」

という質問を同期のAから受けたのはまだ二十代前半、東京で就職した会社の新人研修の夜でした。
「そんな昔のこと…」
とぼくが答えに窮していると
「ほら、オレ地元山梨でしょ、はい、そう、ご存知風林火山の武田信玄がいたわけ」
とせきを切ったようにしゃべりだし二時間にわたって信玄の偉大さについて語り、最後には
「オレはこの会社で天下を取るよ。高浪君、こまった時にはオレが信玄のように塩を送ってやるから心配するな」
と真顔で言うのです。
Aは半年後には会社を辞めていました。
今考えると実に悔しい、長崎にだって戦国大名はいたのです。
長崎人としてそのことをハッキリ主張できなかったことが悔やまれてなりません。
長崎から大村一帯を治めていたのは、日本初のキリシタン大名大村純忠でした。
ここからは演出上、純忠の宿敵である武雄の後藤貴明になり代わって書かせていただきます。

 わたくし貴明は大村家領主である純前の唯一の男子として、当然大村家の家督を継ぐつもりでおりました。
しかし、ある日突如として養子に出され、後藤家の領主にさせられたのです。
その後、大村家の家督を継いだのは有馬家領主晴純の次男純忠。
肥前で力をもっていた有馬家が、間接支配するための戦略的な相続劇でした。
戦乱の世ゆえ、いたしかたないと一度はあきらめました。
しかしある事件がきっかけで、わたくしは純忠の息の根を止め大村領を取り返すことを天に誓ったのです。

<横瀬浦港時代>
 それまで南蛮貿易は松浦氏の平戸港が独占していました。
しかしポルトガル人が貿易と同時にキリスト教の布教も要求したため、地元の仏教徒との衝突がおきてしまいます。
宣教師たちが平戸にかわる貿易港を探していたところ、浮上してきたのが大村領の横瀬浦でした。
純忠は布教を認めるだけでなく、教会を建設し貿易における税を免除することを約束。
宣教師たちはこれに満足し、横瀬浦を新たな貿易港に決定します。
純忠はさらに宣教師の信頼を得るため、自らも仏教を棄てキリシタンとなりました。
教名はドン・バルトロメオ。
長いのでドンと呼ばせていただきます。
 その年の盂蘭盆、事件は起こりました。
ドンは自分は仏教を棄てたのだということを宣教師たちにアピールするため、
こともあろうか、わたしの父であり大村家の前領主である純前様の位牌を焼いたのです。
この暴挙に大村家の老臣たちは怒り、わたしに内通してきました。
わたしは老臣たちとドン暗殺を計画しますが失敗に終わります。

<福田港時代>
 横瀬浦のつぎに貿易港になったのは大村領の福田です。
内通者の情報によるとこの頃のドンは誰よりも熱心なキリシタンで、
その影響を受けた家臣たちが次々と洗礼を受けているというではないですか。
仏敵ドンにますます恨みをつのらせたわたしは、ふたたび内通者と共謀し郡城のドンを攻めました。
我が軍は圧倒的優位に立ち勝利は目前でした。
しかし嵐の夜、陣中でわたしが眠っておりますと、暗闇の中から
「サンディエゴ!」
という呪文のような雄叫びを連呼し、純忠の騎馬隊が夜襲をかけてきたのです。
我が軍はこのサンディエゴに圧倒され総崩れになり、またもやドンを仕留めることができませんでした。

<長崎港時代>
 この時代になりますと、我が後藤家は佐賀の龍造寺氏に支配されておりましたので、もうドンどころではありませんでした。
その代わりに今度は龍造寺氏が大村領に支配の手をのばしていました。
肥前最強の龍造寺氏侵攻に対しドンは驚くべき防御策をとります。
長崎をイエズス会に寄進してしまったのです。
龍造寺氏に取られてしまうぐらいならイエズス会に譲り、間接的にでも貿易益を守ろうとしたのです。
自分の先祖の地を外国人に与えてしまうとはいったい…
さらに、熱心なキリシタンのはずのドンが出家し「理専」と名乗っているという衝撃の情報も入ってきました。
こんな型破りなことばかりやられて、わたしもほとほと疲れ果てました。
ドンはいったい才人なのかうつけなのかキリシタンなのか仏教徒なのか
一体何者だったのでしょうか。


 日本が世界に誇る名曲「また逢う日まで」は、昭和四六年に尾崎紀世彦が歌い大ヒットしました。
この作品で印象的なのが「パッパッパッパッパパ・ドン」というイントロ。
レコーディング時「ドン」というフロアタムの音だけが決まらず何度も録りなおし、
結局もう一日かけてやっとあの「ドン」を録音したそうです。
ぼくは「また逢う日まで」だけで十種類ほどのカヴァー音源を持っていますが、
やはりオリジナル盤の「ドン」が一番深みがあって心に響きます。


 ぼくが高校の時の担任は昭和一ケタ生まれの体育の教師で、常に竹刀を持ち歩くまるで軍人のような先生でした。
終礼が終わりみんなが帰りかけていたとき担任がBを呼び止めました。
「おいお前、カバンの裏になんて書いとっとか」
Bはしまったというような顔をして
「NYCです」
と神妙に答えました。
「なんかそれは」
「ニューヨーク・シティの略です」
「なんでニューヨークとや」
「す、好きなんです」
当時、学生カバンの裏に自分がファンであるバンドのステッカーを貼ったり、名前を書いたりするのが流行っており、
パンクファンのBは白いペンキで壁の落書き風に「NYC」と書いていました。
これは、パティ・スミスやテレヴィジョンらで知られるニューヨーク・パンクを象徴しているのですが、
そんなこと昭和一ケタの担任に説明しようがありません。
「なんかーおまえは長崎のモンやろーが、書くとやったら長崎市って書かんかー」
などと無理なこといって詰め寄ってきました。 
危険を感じたBは
「し、し失礼しまーす」
と逃げるように走って出ていきました。
怒りがおさまらない担任は
「お前もなんか書いとっとか」
とぼくにむかって言うのです。
「いえ、なにも書いていません。失礼しまーす」
とぼくも教室から脱出しました。
実はぼくのカバンの裏にはイギリスのロックバンド「ローリング・ストーンズ」のステッカーが貼ってあったのです。
もし捕まっていたら
「昔は鬼畜米英てゆうてなー」
とはじまり帰れなくなっていたかもしれません。
あの頃はこんな戦前生まれの元気な先生が沢山いました。

 大村純忠は洗礼まもない頃、戦まっただ中の陣中で
「JESUS」「INRI」の横文字や「地球」「十字架」が描かれた陣羽織を着て、
首には十字架となぜか数珠という斬新な格好をしていたそうです。
これがキリシタン大名スタイルとして定着していくのですから、今でいうファッション・リーダーです。
この時の純忠はキリスト教に対して、ぼくやBと同じようなファンの心境だったのではないでしょうか。
ファンというのも半分信仰のようなものですから。
そう考えれば純忠と大いに共感できるのです。
さて共感したところでぜひ同期Aを探しだし、思案橋あたりで飲みながら一晩じっくりと長崎のドンについて話し聞かせたいものです。 それと塩を送ったのは上杉謙信であるというところもきっちり訂正しておかねばなりません。
こんなことをいまだ根にもっているぼくは「江戸の敵を長崎で」コンコンチキだ。

2006年6月1日発行『ナガサキコラムカフェAGASA第3号』に掲載されたテキストの再録です