『週間てりとりぃ』にコラムが掲載されました。「長崎のムードコーラスについて知っている二、三の事柄」
長崎の歴史や風景を描いた和手ぬぐい
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長崎戦国
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 プリント 長崎の歴史は、貿易港の拠点をさがしていたポルトガル人によって発見された元亀元年(一五七〇)からはじまります。信長や秀吉、家康らが国取り合戦を繰り広げていた戦国時代のこと。長崎の港には実に様々な「西洋」が入ってきました。「南蛮の貿易商人」「時計」「キセル」「印刷機」「楽器」「銃や大砲」「珍しい動物」、そしてキリスト教を布教するためにやって来た「パードレ(宣教師)」です。 逆に長崎港から、西洋へと旅立った日本人たちもいます。天正遣欧少年使節の四人、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノです。彼らは出発時、十三歳でしたが、ポルトガル、スペイン、イタリアをまわって日本に戻って来た時には二十歳を越えていたそうです。
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ばくまつる
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SOLD OUT
縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 プリント 幕末の長崎は面白い! 長崎は江戸と距離があり、幕府の目が届きにくいため、倒幕を目論んでいた南国雄藩の暗躍の場となっていました。坂本龍馬は脱藩した志士を集めて、長崎で亀山社中(後の海援隊)を結成します。長州の高杉晋作、薩摩の小松帯刀らはイギリス商人グラバーに軍艦や武器の輸入を依頼。もちろん密輸入です。佐賀藩の大隈重信や紀伊を脱藩した陸奥宗光らは、茶の貿易で財を成した大浦慶に援助を受けます。長崎検番による、唄と踊りで華やかな丸山の料亭では、毎夜のように密会や密約、情報交換がおこなわれたことでしょう。 想像するとわくわくしてきます。もしもタイムマシーンが出来て、好きな時代に行けるとしたら、私は迷わず『幕末の長崎』を選ぶでしょう。
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モダン・ナガサキ
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 プリント 日本では唯一の海外貿易港として栄華を誇った長崎ですが、江戸末期の開国でその特権を失い一時は衰退。明治以降、「造船」「炭坑」「中国との交易」を軸に再度発展していきました。ところが昭和二〇年八月九日、原爆投下で長崎は壊滅的被害を受けます。その後、「造船」「水産」「観光」を新たな軸として二度目の復興を果たしました。 「キリスト教の伝来」「唐人との交流」「オランダ人との貿易」といった、他県にはない異文化が複雑に溶け 合い、何重にもサンドされ、現在のような長崎になりました。芥川龍之介、竹久夢二、斎藤茂吉、北原白秋、与謝野鉄幹、永井荷風、ピエール・ロチ、プッチーニ。多くの文化人たちがエキゾチックでモダンな長崎に魅せられ、こぞって作品の題材にしたのです。
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平和へ
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 広島 長崎 原爆投下までの流れ 1789年 ウラン発見される 1919年 物質変換とエネルギー放出の発見 1938年 ウラン核分裂の発見 1939年 第二次世界大戦始まる 1942年 マンハッタン計画 現在の500億ドル相当が投じられ原爆の開発製造開始 1944年 原爆の日本への使用を米英が同意 1945年 5月12日 京都・広島・横浜・小倉が原爆投下候補地に 7月16日 爆発実験成功 25日 広島・小倉・新潟・長崎が原爆投下候補地に決定 26日 ポツダム宣言(無条件降伏勧告) 28日 日本 ポツダム宣言を黙殺 8月6日 午前8時15分 広島に原爆投下 8月9日 午前9時45分 小倉に原爆投下を試みたが視界が悪く断念 午前11時2分 長崎に原爆投下
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長崎をチンチン走る
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 日本ではじめて路面電車が走ったのは明治二十八年(1895)京都の七条停車場前〜伏見町油掛。その後、日本各地で運行されるようになります。東京、大阪、岡山と増えていき、大正四年(1915)長崎でも築町〜病院下間の運行がはじまりました。 現在は運転手一人のワンマン電車ですが、開通当時は前に運転手、後ろに車掌がいるツーマン電車でした。車掌が頭上にあるひもを引き「チンチン」とベルを鳴らし出発の合図を運転手に伝えていたこと から「チンチン電車」と呼ばれるようになったともいわれています。 長崎を走っている電車は長崎オリジナルのほかに、箱根登山鉄道、東京都交通局、熊本交通局、仙台交通局、西日本鉄道からやって来たにぎやかな顔揃え。車庫はまるで電車博物館のようです。 手ぬぐいの絵柄は旧東京都電をカラーリングした奉号、いつか本当に長崎の街を走らせてみたいものです。
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月琴
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 満月の形をして琴のような音色をだすことから月琴とよばれ、英語ではなんとムーン・ギターというそうです。義甲と呼ばれるヒモ飾りがついたオシャレなピックで演奏します。長崎に伝来したのは十七世紀ごろといわれ、月琴や明笛、唐琵琶、胡琴、はん鼓といった中国楽器で奏でられる明清楽(清楽曲に一部明楽曲の影響がみられることからそう称した)は長崎から日本中にひろまりました。 慶応二年(1866)新婚旅行で薩摩に滞在していた坂本龍馬と お龍は、薩摩の依頼をうけ長州ゆきの桜島丸に乗り込みました。しかしながら当時長州は幕府軍と戦闘状態にあり、お龍をそのような危険な場所へつれていくわけにはいかないため、途中長崎に立ち寄り龍馬とつながりが深かった小曽根乾堂のもとにお龍をあずけます、ここでお龍は乾堂の娘キクから月琴をならったといわれています。 手ぬぐいの月琴はたてまつる特製モデル。タイム・マシンが開発されたあかつきにはお龍へプレゼントしにいきたいと考えています。
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こんげん月はえっとなかばい
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 プリント 大田蜀山人こと大田直次郎は、文化元年(1804)九月、長崎奉行支配勘定方として着任します。江戸から来た蜀山人は「彦山の端より 出ずる月はよか こんげん月はえっとなかばい」と長崎言葉の素敵な歌を詠みました。 21世紀、稲佐山のふもとで「こんげん月はえっとなかばい」とつぶやいたら、ロープウェイに乗車した蜀山人が稲佐山へ空中散歩と洒落込む姿が見えました。座席に腰掛けた蜀山人、ひざの上には月見団子の包みをそっと抱えているのかもしれません。
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こいなんね
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 南蛮貿易時代から明治にかけて、長崎には西洋から見たことも聞いたこともない品々が入ってきました。長崎の人々は「こい、なんね?」(長崎弁で「これ、なに?」)と興味津々、目を見張らせたことでしょう。
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オタクサ
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 出島の商館医だったシーボルト(1796-1866)は、ドイツに帰国後『日本植物誌』を出版します。その中でアジサイの学名を「ハイドロランゲア・オタクサ」と名づけました。日本に残したお瀧(1807-1869)への思いをこめてつけたのでしょう。 明治二年、病床のお瀧はどうしてもオランダ苺が食べたいと娘の稲に懇願します。稲は探しまわってようやく東山手ポルトガル領事の庭にあったものを手に入れました。お瀧はその苺を食し「もはやこの世に思い残すことはなか」と満足そうにつぶやいたそうです。 シーボルトとの思い出の味がしたのでしょうか。
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うごかんとよー
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 日本初の商業カメラマン上野彦馬が、坂本龍馬を撮影したのは龍馬が長崎で活動した元治元年から慶応三年(1864-67)の間だと思われます。スタジオでの龍馬の格好は、くたびれた黒羽二重の紋服に、よれよれの袴、小刀をはさみブーツをはいていました。このころの撮影は露光に大変時間がかかり、長時間動かずにポーズをとっていなければならなかったそうです。写真の龍馬が台によりかかっているのはそのためでしょう。「あとすこしやけん、うごかんとよー(あとすこしだから、うごかないでよー)」と彦馬にはげまされながら撮影したのかもしれませんね。
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コンドーさん
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染製 座して腕を組み脇に刀。近藤勇のもっとも知られたポートレイトです。撮影したのは長崎万屋町出身の内田九一(1844-1875)でした。 九一は早くに両親を亡くし、オランダ通詞吉雄耕牛の末裔にあたる伯父の吉雄圭斎に育てられます。商業写真家の祖といわれる上野彦馬の下で修行したのち東京で写真館を開業。東都随一の写真家といわれるほど大成功しました。明治天皇をはじめて勤写したのも九一です。 写真に写る近藤勇の表情は、厳しいながらもどことなく微笑しているようにも見えます。九一が「コンドーさん撮りますけん、もうすこし笑ろうてください」と長崎訛りで声をかけたのかもしれませんね。
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長崎ムード歌謡
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 昭和四十年代、長崎を舞台にしたムード歌謡が全国で流行します。高橋勝とコロラティーノ「思案橋ブルース」で火が付き、青江三奈「長崎ブルース」、内山田ひろしとクールファイヴ「長崎は今日も雨だった」、瀬川映子「長崎の夜はむらさき」、五木ひろし「長崎から船に乗って」と毎年のように長崎モノがヒットしました。長崎平戸出身の作詞家 藤浦恍は「長崎という地名そのものが音楽的で、長崎の歌がヒットする要素でもある」と分析しています。 絵柄のグループは『たて まつろうとカピタンナイツ』。長崎ムード歌謡復活のために結成されました。手ぬぐいの中だけの活動ですが、応援よろしくお願いします。
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ぽっぺん!
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 ガラス細工は長崎開港(1571)のころ南蛮人から伝えられました。ビードロ(vidro)はポルトガル語で、ガラスという意味です。江戸時代、ガラス細工のことを「ビードロ細工」、ガラスでできた指輪のことを「ビードロ指がね」などとよんでいたそうです。現在ビードロといえば、フラスコ状でガラスの弾力性を利用した玩具のことをいい、縦の筒より中へ軽く息を吹きこむと、うすいガラス底が気圧差によってへこみ「ぽっぺん!」と音が出ます。なんと上品でエキゾチックな音でしょう。 なお、このたてま手ぬビードロを吹くと、布がひらひらします。
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お鰭をどうぞ
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 「卓袱」とは中国語で「テーブルにのった素晴らしい料理を、皆で食べる」という意味です。別名「和華蘭料理(わからんりょうり)」とも呼ばれます。「和」は日本、「華」は中国、「蘭」はオランダ(西洋)の料理が一緒のテーブルにのっていることが由来です。 卓袱料理には鉄の掟があります。「お鰭をどうぞ」との料亭のおかっつぁま(女将)の言葉を合図に箸をつけるという昔からのしきたりです。「お鰭」とは魚や餅が入ったお吸い物のことで「あなたの為に魚を一尾使いましたよ」という証に、鯛の鰭を添えているのです。 【たてまつる卓袱メニュー】 上から、お鰭付きのお吸い物(和)、豚の角煮(華)、パスティー(蘭)、海老と鮑(和)、ハトシと長崎てんぷら(華、蘭)、煮豆(和)、刺身盛り(和)
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中島川をのぞいてみれば
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 元亀二年(1571)の長崎開港以降、干潟の入り江が次第に開け、両側から埋め立てをして護岸を築きました。その中央が今の中島川になったと言われています。当初、川には篤志家の私財によって数多くの石橋が架けられました。アーチ構造の草分けで国指定重要文化財の「眼鏡橋」もその一つです。 眼鏡橋周辺には歴史ある商店街や骨董店が多くあり、風情ある散歩が楽しめます。中島川では鯉や亀が気持ちよさそうに泳いでいる姿を目にします。散歩途中にそっとのぞいてみてくださいね。
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長崎玉突奉行
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 ビリヤードのことを長崎では玉突と呼びました。16世紀フランスで生まれた遊技で、初めて日本に入ってきたのが寛政のころ(1790年代末)の長崎出島でした。出島に閉じ込められていたオランダ人たちの限られた遊技の一つでしたが、出島を訪れる日本人への接待としても利用していたようです。オランダ人たちがプレイしているところを見学したり、カピタンの指導で奉行が体験したという記録も残っています。大通詞の吉雄耕牛や当時長崎奉行支配勘定方だった大田南畝においてはプロ級(自称)だったそうです。 1797年(寛政9)に書かれた「長崎見聞録」で、ビリヤードのルールを的確に説明した文を見つけました。「●瑠の玉二つあり、大きさ桃実のごとくなり、玉突の遊び此方の玉を突く、玉あたり転動して、台の左右の空穴ありて、其空穴の底に網の袋あり、彼玉此袋に落入たるを勝ちとするなり」
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マイ・ネーム・イズ・グラバー
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縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 トーマス・ブレイク・グラバー(1838〜1911)は日本の近代化に貢献した人物として知られています。具体的にどんなことをしたのかというと…、日本で最初に汽車を走らせた。日本初の近代的炭坑やドックを作った。国禁を犯して伊藤博文らの海外留学の手助けをした。船、武器の輸入、キリン・ラガー・ビールを作ったのもグラバー(ラベルの麒麟のヒゲはグラバーがモデルといわれています)。驚愕の仕事量です。しかし、なんといっても一番の大仕事は、生麦事件以来、敵対していたイギリスと薩摩を仲直りさせたということです。このことが倒幕の大きな原動力になりました。グラバーは龍馬とならぶ幕末のヒーローだったのです。