『週間てりとりぃ』にコラムが掲載されました。「長崎のムードコーラスについて知っている二、三の事柄」
長崎の歴史や風景を描いた和手ぬぐい
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NAGASAKI JOMON RESEARCH <ナガサキ 縄文リサーチ> アーバンリサーチ✖️たてまつる コラボ手ぬぐい
¥1,650
縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 プリント 長崎の有名な眼鏡橋が架けられたのは1634年です。そこから遡ること1万数千年前の縄文時代、この近辺に人が住んでいたことが証明されました。2002年、諏訪小学校建設の際に行われた発掘調査で縄文時代の土器や石器が大量に発掘されたのです。中でも興味深かいのは大量のイチイガシのドングリが詰まった貯蔵穴です。ドングリは米がない縄文期の主食でした。この「磨屋町遺跡」の他に長崎で有名なのが「深堀遺跡」です。縄文時代から中世まで続く複合遺跡で、出土品は10万点を超えています。深堀貝塚資料館や、長崎市歴史民俗資料館にその一部が展示されています。 「ナガサキ縄文リサーチ」は「もしも縄文時代の長崎にアーバンリサーチがあったら」を描いた歴史ファンタジーです。 この時代の流行柄は「渦巻模様」。アーバンリサーチで人気のウズマキ・ワンピースやウズマキ・ショール、ドングリをふんだんに使ったアクセサリーを買い求めたボーイズ&ガールズ。土器型ショッパーをもってウキウキしています。 長崎雑貨たてまつるは、株式会社アーバンリサーチが地域共創を目的に取り組む「JAPAN MADE PROJECT」と協業しています。
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NAGASAKI JOMON RESEARCH <ナガサキ 縄文リサーチ> アーバンリサーチ✖️たてまつる コラボ手ぬぐい
¥1,650
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 長崎の有名な眼鏡橋が架けられたのは1634年です。そこから遡ること1万数千年前の縄文時代、この近辺に人が住んでいたことが証明されました。2002年、諏訪小学校建設の際に行われた発掘調査で縄文時代の土器や石器が大量に発掘されたのです。中でも興味深かいのは大量のイチイガシのドングリが詰まった貯蔵穴です。ドングリは米がない縄文期の主食でした。この「磨屋町遺跡」の他に長崎で有名なのが「深堀遺跡」です。縄文時代から中世まで続く複合遺跡で、出土品は10万点を超えています。深堀貝塚資料館や、長崎市歴史民俗資料館にその一部が展示されています。 「ナガサキ縄文リサーチ」は「もしも縄文時代の長崎にアーバンリサーチがあったら」を描いた歴史ファンタジーです。 この時代の流行柄は「渦巻模様」。アーバンリサーチで人気のウズマキ・ワンピースやウズマキ・ショール、ドングリをふんだんに使ったアクセサリーを買い求めたボーイズ&ガールズ。土器型ショッパーをもってウキウキしています。 長崎雑貨たてまつるは、株式会社アーバンリサーチが地域共創を目的に取り組む「JAPAN MADE PROJECT」と協業しています。
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DinosaUR Nagasaki <ダイナソー ナガサキ> アーバンリサーチ✖️たてまつる コラボ手ぬぐい 長崎市恐竜博物館ミュージアムショップHAKUAオフィシャルグッズ
¥1,650
縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 プリント 1996年、中国で恐竜における大発見がありました。背筋にそって羽毛が生えているシノサウロプテリクスの全身骨格化石が発掘されたのです。その後も中国でこのような「羽毛恐竜」の化石発掘が相次ぎ、恐竜のイメージは一変。百科事典や恐竜をテーマにしたテレビ番組では、頭や背中、尻尾に羽毛を生やした恐竜が描かれるようになりました。 「ダイナソー ナガサキ」は「もしも白亜紀の長崎にアーバンリサーチがあったら」を描いた歴史ファンタジーです。恐竜たちが身にまとっている羽毛は、アーバンリサーチの恐竜専門ショップでゲットしたもの。羽毛は保温性があるため、体温調節ができない一部の恐竜にとっては必需品であり、何よりもスタイリッシュなアイテムを取り入れるのが恐竜たちのトレンド。大きなバショウの葉製ショッパーを持った恐竜のボーイズ&ガールズたちでショップの前は大賑わいです。 国内で最初にティラノサウルス科の大型種の歯が発見され、その後も多種類の恐竜の化石が発掘され続けている長崎。羽毛恐竜の発見も近いかもしれません。 長崎雑貨たてまつるは、株式会社アーバンリサーチが地域共創を目的に取り組む「JAPAN MADE PROJECT」と協業しています。
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DinosaUR Nagasaki <ダイナソー ナガサキ> アーバンリサーチ✖️たてまつる コラボ手ぬぐい 長崎市恐竜博物館ミュージアムショップHAKUAオフィシャルグッズ
¥1,650
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 1996年、中国で恐竜における大発見がありました。背筋にそって羽毛が生えているシノサウロプテリクスの全身骨格化石が発掘されたのです。その後も中国でこのような「羽毛恐竜」の化石発掘が相次ぎ、恐竜のイメージは一変。百科事典や恐竜をテーマにしたテレビ番組では、頭や背中、尻尾に羽毛を生やした恐竜が描かれるようになりました。 「ダイナソー ナガサキ」は「もしも白亜紀の長崎にアーバンリサーチがあったら」を描いた歴史ファンタジーです。恐竜たちが身にまとっている羽毛は、アーバンリサーチの恐竜専門ショップでゲットしたもの。羽毛は保温性があるため、体温調節ができない一部の恐竜にとっては必需品であり、何よりもスタイリッシュなアイテムを取り入れるのが恐竜たちのトレンド。大きなバショウの葉製ショッパーを持った恐竜のボーイズ&ガールズたちでショップの前は大賑わいです。 国内で最初にティラノサウルス科の大型種の歯が発見され、その後も多種類の恐竜の化石が発掘され続けている長崎。羽毛恐竜の発見も近いかもしれません。 長崎雑貨たてまつるは、株式会社アーバンリサーチが地域共創を目的に取り組む「JAPAN MADE PROJECT」と協業しています。
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ベスト・オブ・温泉/UNZEN/雲仙 遠江屋本舗✖️たてまつる コラボ手ぬぐい
¥1,650
縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 プリント 雲仙温泉の歴史は古く、西暦701年に行基が開山したことから始まります。古来より「温泉山」と書いて「うんぜんざん」と読み、真言密教の修行の地として栄えました。江戸時代には湯壺が開かれ、湯治場として温泉街が整備されます。明治中期、上海に居留する欧米人向けの外国人避暑地「UNZEN」として海外メディアに紹介され、温泉高原リゾートへと姿を変えていきました。昭和に入り、温泉岳は「日本新八景」山岳部門で富士山を抑えて一位を獲得。同9年日本初の国立公園「雲仙」として、日本を代表する観光地へと発展していきました。手ぬぐい「ベスト・オブ・温泉/UNZEN/雲仙」は、守り継がれた雲仙の自然や四季、時代を現す雲仙らしい建造物、古写真の中から飛び出してきた避暑地時代の記憶たち、今も昔も変わらない雲仙名物を描き起こしました。
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雲仙 池ノ原ゴルフリンクス 遠江屋本舗✖️たてまつる コラボ手ぬぐい
¥1,650
縦約90センチ 横約35センチ 綿100% 日本製 注染 明治45年、雲仙の住民が牛馬の放牧地として所有する池ノ原地区を長崎県へ99ヶ年無償で提供し、1913年(大正2年)雲仙ゴルフ場(池ノ原ゴルフ場)は日本で初めてのパブリックコースとして開設されました。開設にあたり土地の確保や県との交渉、資金提供にと奔走したのが明治維新で活躍したトーマス・グラバーの長男 倉場富三郎でした。ゴルフ場の開設後、県は温泉街にテニスコートや娯楽館を開設。その後、雲仙は年間3万人もの欧米人を迎える本格的な外国人避暑地「UNZEN」へと姿を変えていきました。温泉高原リゾート「UNZEN」の幕開けを代表する雲仙ゴルフ場は全9ホールをグリーンを変えて2周するコースで、四季折々の雲仙の自然を満喫できる素晴らしいゴルフ場です。さあ!あなたも避暑地時代の紳士とともに普賢岳へ向かってナイスショット!
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UNZEN PARK 1928 遠江屋本舗✖️たてまつる コラボ手ぬぐい
¥1,650
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 雲仙温泉は明治末期から昭和初期まで県営温泉(うんぜん)公園として、外国人避暑客向けにリゾート開発が進みました。温泉街には洋式ホテルが立ち並び、ゴルフ場やテニスコート娯楽館などが整備され、最盛期には世界約30ヵ国から年間3万人の外国人避暑客が訪れました。1928年(昭和3年)の温泉街はリゾート開発に活気づき、沢山の外国人で溢れかえっていたことでしょう。一度の滞在で平均2~3週間を過ごしたという外国人避暑客は、昼間はゴルフやテニス乗馬にトレッキング。夜はホテルで豪華な晩餐会を行い、生バンドの演奏に乗せてダンスパーティーを楽しみました。 手ぬぐい「UNZEN PARK 1928」では、そんな外国人避暑客が愛したハイカラモダンな雲仙の夜を再現しています。
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長崎 ネコの眼フォト~猫の巻
¥1,000
SOLD OUT
たてまつるのインスタグラム「長崎 ネコの眼フォト」がZINE(ジン)になりました! 一年間、長崎の町を歩いて撮りためた猫の写真集です。町中に住んでいる猫たちの日常を正方形に切り取りました。縦横15㎝・オールカラー・36ページ・写真点数49枚
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眼鏡橋で逢いましょう
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 眼鏡橋は1634年、興福寺の第二代住持唐僧 黙子如定(1597-1657)によって創建された日本最古のアーチ型石橋です。 古い書物では「目鏡橋」という字を使っているものや、酒屋町と磨屋町の間に架かっていることから「酒屋町橋」と書かれているものもありました。 正式に「眼鏡橋」と命名されたのは明治になってからです。 それまで眼鏡橋に限らず長崎の橋に正式な名前はなく、それぞれが俗称でよんでいました。 それでは不便だというので長崎区が橋の命名を漢学者の西道仙(1836-1913)に一任したのです。 道仙が新規命名、統一命名した橋名は百をこえますが、「思案橋」「思切橋」の遊び心、「玉帯橋」「桃渓橋」の美しい響きは百年以上たったいまでも色あせることがありません。 名づけたのが詩心ある西道仙だったことは、長崎にとって幸運でした。
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教会の記憶
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 「サンタ・マリアの御像はどこ?」 1865年、大浦天主堂が建ってまもなく、プチジャン神父のもとへ女性が近づき尋ねました。のちに信徒発見といわれる歴史的瞬間です。キリシタンであることを告白したのは浦上の人々でした。 250年にわたるキリスト教の禁教と迫害の時代、一人の神父もいない日本で七代にもわたって、ひそかに受け継がれてきた信仰だったのです。大浦天主堂が建ったころ、日本人にはまだ信仰の自由はなく、浦上の人々は日本各地へ流罪となりました。浦上四番崩れです。浦上の人々はこれを「旅」とよびました。信仰の自由が認められ、人々が「旅」から戻ったのは明治6年、4年後のことでした。
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長崎に丸山という処なくば
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 長吉が長崎での商売を終え大阪に帰る途中のことです。急な雨にちょっと雨宿りするつもりで丸山花街の門へと入りました。すると美しい太夫(たゆう)がこちらへどうぞと手招きしています。 奥へと通されお座敷に座るとお酒が運ばれてきました。続いて、月琴の音にあわせて華麗な舞が始まります。あまりの心地よさに時のたつのを忘れ、我にかえった時、稼いだお金はすっかり使い果たしていました。 そとは雨、太夫が傘でお見送りです。 長吉はぼうぜんと天を仰ぎ、井原西鶴「日本永代蔵」の台詞をつぶやきます。 「長崎に丸山という処なくば、上方の金銀無事帰宅すべし、ここ通いの商い、海上の気づかいの外、いっ時知らぬ恋風おそろし」
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昼しづかなる唐寺や
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 長崎の昼静かなる唐寺や 思ひいづれば白きさるすべりの花 大正六年(1917)長崎医学専門学校の精神科部長として赴任し、三年あまり長崎に滞在していた斉藤茂吉が帰京後詠んだ歌です。長崎では唐寺を「からでら」ではなく「とうでら」と読みます。と、弟子で長崎の郷土史家でもあった渡部与茂平(庫輔)の助言を受けて、歌集には「とうでら」とルビをふってあるそうです。 市内にある唐寺、興福寺(1620)、福済寺(1628)、崇福寺(1629)を三福寺とよび、そのすべての寺には航海の守神である媽祖(まそ)がまつられていました。貿易時代の唐船は船中に媽祖を奉じ、着岸したあとは船から上げて三福寺の一寺(輪番)に奉祀していたそうです。これを現在再現しているのが、旧正月に開催されるランタン・フェスティバル恒例のイベント媽祖行列です。
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秋の石畳
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 旅先で雨に降られ肩を落とすことがありますが、長崎では落ち込む必要はありません。 なぜなら長崎は「石の町」だからです。 流行歌の歌詞でもよく使われますが、雨に濡れた石畳などはとても情緒があり、美しく見えます。 石畳で特に有名なのは東山手のオランダ坂でしょう。 「オランダ人が歩く坂道」というのが名の由来ですが、開港後、ここ一帯は居留地となりオランダ以外にもアメリカ、ロシア、フランスの貿易商人たちが住んでいました。 中でも最も人口が多かったのはイギリスです。 あのグラバーさんもイギリス人でした。 ですから坂道を利用した頻度からいえば、本当は「イギリス坂」なのかもしれません。 それでは何故「オランダ坂」になったのでしょうか? それは実に微笑ましい理由でした。当時の長崎の人々は外国人をみんな「オランダさん」とよんでいたからなのです。
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ハタ揚げ合戦
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 長崎では凧のことをハタと呼びます。ハタ揚げは江戸時代、出島にいたインドネシア人らから伝えられたもので、糸(よま)にビードロ(硝子)粉をまぶし空中で切り合うけんか凧です。現在は毎年4月に唐八景で大会が開催されています。明治のころ長崎にはハタ揚げの名手と知られるものが大勢おり、それぞれに独自のハタ模様がありました。トンチーと呼ばれるハーフのハタ使いもいたそうで、ハタ模様は浅黄に「ト」の字だったそうです。 さすがはトンチー、「奉」模様のハタはあっさりと撃墜されてしまいました。切られたハタはそれを拾った者の所有になるというのが、長崎ハタ揚げのルール。「奉」ハタはだれのモノになるのでしょうか。
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春の唐人屋敷
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 当初、唐の貿易商人らは市中で暮らしていましたが、密貿易の防止やキリスト教の取り締まりのため「唐人屋敷」に隔離されることになりました。 場所は現在の長崎市館内町、1688年のことです。 屋敷への出入りはオランダ人を隔離していた「出島」同様厳しく制限され、中に入ることができた日本人は地役人と遊女だけでした。 現在、館内町では市指定史跡「土神堂」、「天后堂」「観音堂」、市指定有形文化財「福建会館」を見ることができます。 シルクハットにステッキで散歩しているのは、「国家の父」とよばれた孫文(1866-1925)。 何度も来た長崎につぎのようなコメントを残しています。 「長崎は支那と密接な関係あり。 加ふるに明末、支那の為に大謀ありし鄭成功氏は此長崎に生れ、而かも其母なる人は長崎の人なりしは歴史の証する処なり。 其他文教に於て、思想の根本に於いて、両国の関係は水も洩らさぬ仲なりし」
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夏夜の教会群
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 1549年、ザビエルによって日本へはじめてキリスト教が伝来しました。この時期の教会は「南蛮寺」とも呼ばれ、寺院や民家を改造したものでした。現在のような西洋風の教会建築になったのは幕末のことです。最初は西洋建築の知識を持った神父が設計し、日本人の大工と苦心して建てていました。プチジャン神父と小山秀之進による大浦天主堂(1865)がその第一号です。のちに設計・施工ができる日本人も登場。紐差教会や田平教会などを手がけた鉄川与助です。与助らが手がけた「和」と「洋」が見事に溶けあった長崎の教会群は2018年「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として世界文化遺産に登録されました。 花火を見上げているのは農作業帰りのド・ロ神父(1840-1914)。ド・ロは出津教会・大野教会の設計をした他、農業、織物、食品加工、医療などのあらゆる西洋技術を伝え、外海の村民たちが自立できるよう生涯ちからを尽くしました。
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秋の寺町
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 長崎は東洋のローマとよばれるほどキリスト教が盛んで多くの教会がありました。ところが1614年、徳川幕府の禁教令を境に教会は壊され、寺社が次々にたてられます。なかでも集中的に建築されたのが風頭山の麓で、横一列にびっしりと並んでいます。その風景から寺町とよばれるようになりました。現在も2社14寺が十七世紀の長崎の香りを残しています。 傘をさしてヘイフリ坂を登っていくのはシーボルトの孫にあたる山脇タカ(1852-1938)。この先にある祖母の瀧と母の稲の墓へお参りにいくところです。寺の上に広がる墓石群には商業写真の始祖 上野彦馬(1838-1904)、西洋砲術を伝えた高島秋帆(1798-1866)、海援隊の近藤長次郎(1838-1866)など長崎を舞台に活躍した人物たちが眠っています。
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冬の大浦バンド
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染製 バンド(=海岸通り)という言葉は、イギリス植民地時代のインド英語バンダー(=堤防)から派生した言葉です。ボンベイで初めてつかわれ、その後イギリスの影響下にあるアジアの都市でもつかわれるようになりました。 手ぬぐいに描かれているのは大正時代の大浦バンド。左から三井物産長崎支店、米国領事館、英国領事館、ホーム・リンガー商会、源長両替交番、香港上海銀行、長崎ホテル。国際的なバンドとして長崎の大浦が輝いていた時代です。明治37年築の英国領事館と明治40年築の香港上海銀行が今でも健在。その美しい姿が当時を偲ばせてくれます。
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たてまつる
¥1,540
SOLD OUT
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 プリント 「たてまつる」という屋号は、かつてここ江戸町に長崎奉行所西役所が位置していたことから、奉行所の「奉」をいただきました。 幕府から派遣された長崎奉行はここから出島や市中の統治をおこなったのです。 歴代の長崎奉行には、時代劇で有名な遠山金四郎の父・遠山景晋(1764-1837)がいました。景晋にはこんなエピソードが残っています。 出島の商館長ヘンドリック・ドーフ(1777-1835)には日本人遊女との間に丈吉という息子がいました。 オランダに帰国することになったのですが、規則で子どもを連れ帰ることができません。 丈吉の行く末を心配したドーフは将来は奉行所の役人にして欲しいと景晋にたのみます。 異例な願いでしたが、不憫におもった景晋はこれを聞き入れます。 「金さん」の父親もまた、人情に厚い人物だったようです。
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コンプラ・ビードロ・ギヤマン
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 コンプラとはポルトガル語Comprador(仲買人)に由来しています。幕末ごろ出島のオランダ人に食料品などを売買していた商人のことをコンプラ仲間、彼らが輸出用に使っていた波佐見焼きの陶器をコンプラ瓶と呼びます。瓶に描かれた「ZOYA」には醤油、「ZAKY」はお酒を入れて、ヨーロッパへ輸出していたそうです。 ビードロとはポルトガル語のVidro(=ガラス)の意味で、主に吹きガラスの器を指します。ワインボトルにオランダ人などを描いたものや、菊などの型に吹いたものが残っています。 ギヤマンとはオランダ語のDiamant(=ダイヤ)でガラスの表面に文字や模様を彫り込む「ダイヤモンド彫り」という言葉が、日本人には「ギヤマン」と聞こえたのでしょう。主にカット・ガラスを指す名称として使われました。
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ある晴れた日に
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 「マダム・バタフライ」という物語が生まれたきっかけは、当時長崎に住んでいたコレル夫人が耳にした噂話でした。帰国した夫人から話を聞いた、弟で作家のロングが小説「蝶々夫人」を発表。二年後、今度はベラスコがブロードウェイで舞台劇に。その四年後の一九○四年、プッチーニがオペラ化し世界で大ヒットします。 「ある晴れた日に」は、三年も音信がない夫を待つ女心を蝶々が歌ったアリア。この後、ご存知の通り悲しい結末を迎えるのですが、実はロングの小説は、ここまで悲劇ではありませんでした。「劇化」、「オペラ化」と表現形態が変わるにしたがって結末も変化していったのです。 さて、今回の「手ぬぐい化」でも、結末をたてまつる版に変えることにしました。ある晴れた日、夫ピンカートンが蝶々と娘(原作では息子)を迎えに帰ってくる、という最高のハッピーエンドです。
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シーボルトの調べ
¥1,540
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 文政六年(1823)出島の商館医として長崎にやってきたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796-1866)。彼は西洋の優れた医学技術を日本にもたらしたことで知られています。しかし彼の本当の使命は日本の地理、植物、文化などを調査し資料を本国へ持ち帰ることにありました。日本地図を持ちだそうとして発覚した「シーボルト事件」は有名です。地図には失敗しましたがシーボルトは面白いものを持ち帰ることに成功しました。それは日本の旋律です。聴きおぼえた日本の歌を出島に持参したピアノで譜面にしたのです。のちに、その旋律は「日本のメロディー」というタイトルで出版されました。 シーボルトのピアノは、友人で萩藩の豪商 熊谷五右衛門にプレゼントされ、現在は山口県萩市の熊谷美術館に所蔵されています。
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傘鉾
¥1,540
SOLD OUT
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 注染 長崎くんち、各踊町の先頭に立つ旗印。傘鉾には町名やその町特有の飾りなどがあって一目で見分けがつきます。初期のものは文字通り傘に近い形でしたが、だんだんさがりの中にすっぽりと持つ人が隠れてしまうようになったそうです。傘鉾の重さは約一三○から一五○Kg。内部の中心になるのは太い竹の棒で、その棒の下端に一文銭を数千枚も結わえ付けて上下のバランスをとるようにしています。たった一人で傘鉾をもちあげ歩いたり回ったりと自由自在に操る姿に長崎人の心意気を感じます。
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オール・ザット・ナガサキ
¥1,540
SOLD OUT
横約90センチ 縦約35センチ 綿100% 日本製 プリント スタートは戦国時代に長崎甚左衛門の砦があった旧長崎村(桜馬場、夫婦川町近辺)。眼鏡橋が架かる中島川と、江戸初期の寺社が並ぶ寺町に挟まれた中通り商店街を抜けて、長崎一の繁華街浜の町へ。その先にあるのは、昭和の匂い漂う銅座。『思案橋ブルース』『長崎は今日も雨だった』などのムード歌謡の名曲が生まれた場所です。遊郭があった丸山を横目にさらに進むと、かつて中国の貿易商人が生活していた唐人屋敷。ゴールは天主堂や洋館が建ち並び、西洋の香り漂う大浦居留地。歩いて一時間たらず、わずか3キロのなかに色とりどりの異国文化がぎっしりと詰まっています。こんな和華蘭町、どこにもありませんよ。